正倉院には聖武天皇(701~759)ゆかりの美術工芸品や生活用品が多数収蔵されている。それらの中に、書の道具(文房至宝)、文房具などがあります。その「文房四宝の筆」を見てみます。
漢字が日本にもたらされたのは、後漢光武帝から奴国王が授かった金印「漢倭奴国王」や 前期古墳時代に埋葬された中国鏡の銘文などから、1世紀から5世紀頃と考えられる。
720年に編纂された「日本書記」の応神15,16年(404、405年)条に、百済からの使者が 経や諸々の典籍をもたらし、教えたとあることから、この時に漢字が朝廷公認の形で受け入れられたと考えられる。
また、推古18年(610年)条に、高句麗の僧が絵具・紙・墨の製法を伝えたとあり、同時代に筆の製法も伝えられたと思われる。
正倉院古文書の伊豆国正帳には、筆と墨の製造の料として租稲が充てられたことが記されている。空海(774~835)の漢詩文集「性霊集」巻四には、大同元年(812年)、唐で学んだ筆の製造法を基に筆工に作らせた狸毛の筆を嵯峨天皇と皇太子に献納したことが記されている。嵯峨天皇に献じた筆は真書・草書・写書用の各1本とあり、書体によって筆を使い分けていた。
空海の嵯峨天皇宛の献筆表では唐の製法に従って造った筆は巻筆である。当時の巻筆の製法は、「紙オ纏フノ要」と記されているように、鋒先の尖端部分を残して、芯毛の腰を和紙で巻き、その上を薄く上毛を巻いて筆鋒をつくることにあり、鋒尖だけを崩して使用するとある。紙巻の筆への機能は、鋒先の手前部分の「のど」が整い、「払い・止め」書きやすいく、筆の弾力を強くし、纏りを良くすることにある。
927年編纂された「延喜式」は平安時代初期の古代法典で、この調庸 雑物条と年料雑物条には東北と北陸を除く全国28カ国から毎年5,000管の筆の 貢納があり、多い所で遠江の1,000管、大宰府の1,120管(兎毛と鹿毛各560管)と記されている。さらに造筆条では、筆工の労役(作業量)が規定されていることから、宮廷内においても造筆がおこなわれていたことがわかる。
正倉院の「続修正倉院古文書別集 第33巻」の写経所文書によれば、筆は書写目的により使い分けていた。経文の書写・公文書を書くのに用いていた兎毛筆、細い界線には鹿毛筆、経典の題名には狸毛筆が用いられていた。それぞれ素材の特質に合った使用がなされたのであろうと思われる。